暦と文明
世界の暦
世界文明の源は中国、インド、エジプト、カルデア地方に発達した農業に根差しています。
遊牧時代、農政時代、農業時代を経て人類は天文学の重要性を学びました。
「季節」を知ることがまさに生きる知恵であり、文明の源泉でもあったのです。
五千年も以前の太古において、人間が農耕生活に成功したのは、
正しい季節の変化と移動を知り、それを予知できたからでしょう。
予知法の発達によって、一定の年中行事を計画し、収穫を確保できたのです。
日本の暦は古代中国から伝わったものが基礎になっています。
中国とエジプトの暦
まず古代中国の天文歴法の歩みを知り、暦の起源を知ることにしましょう。
中国では、史書によると帝尭の時代(紀元前二千年以上)にかなり発達していました。
古代中国では帝王覇者の要件は、
第1に強い武力があること。
第2に人民を幸福にする道を教える能力があること。
第3に天文、地理、気象に通じ、暦を通じて農耕の時期を的確に教えること、
の3点でした。
帝尭は義氏と和氏という学者に命じて天文を観測させました。
北斗七星の指すところを見て北極星を知り、
四星(張・大火・虚・昴)が真南に来ていることから春夏秋冬を決めて、
種をまき、刈り入れをしました。
暦が正しくなければ人民の信任を得ることができず、
たちまち革命が起こりました。
暦が革命の原因でもあったわけです。
革命があると帝王が変わり、「正朔」といって年号も変わりました。
歴代の帝王は優れた天文学者、暦法学者でもありました。
一年の四季は太陽の運行によって変化するものであることは早くから知られていました。
けれども一年が何日なのか、正確に知ることはとても困難な問題でした。
しかし、季節の変化ともに時々の星辰の形象に一定の特色があることがわかってきました。これが暦作りの第一歩です。
「農」という文字は「曲」と「辰」に分解できますが、
「曲」は田畑を、
「辰」は主たる星を表しています。
主星の変化を知り種まきの時期を知り得たのです。
古代文明の遺跡には多くの天文台があります。
ピラミッドもその一つという学者もいます。
中国では、地上に立てた土圭(とけい)という棒の影の長さで太陽の高さを測りました。
棒の日の影の最も長い日が冬至、短い日が夏至となり、
昼と夜の等分となる日を春分、秋分と決めました。
この方法から一年が365日と四分の一日であることがわかりました。
ここからさらに十九年七閏の法(19年間に7日の閏が生ずること)も発見されました。
正確には1年は365.24219879日で、
1月は29.53059日からなっていると現在は決められています。
古代エジプトでは全天一明るい星シリウス(大犬座星、天狼星)が
暁に見え始める頃を年の始として、
それと関連して起こるナイル川の氾濫後に種を撒いたそうです。
中国では、最初は大火(さそり座のアルファ星)が夕方南中するのを見て
夏の五月の初めとし、参伐(オリオン座の三ツ星)が夕方南中するのを見て
冬十一月の初めとしたこともありましたが、
周時代になると北斗七星の斗柄の指す方向によって季節を決めるようになりました。
斗柄が日没の時に真下(北)を指す頃が正月で、
北斗七星をかたどった文字である「子」から、
正月を「子の月」としました。
同様に北斗七星の斗柄が東を指せば春三月、
上(南)を指せば夏六月、西を指せば秋九月の初めとしました。
一方、天空の月の満ち欠けの周期も大きな影響を与えました。
月の周期は29日か30日。
平均して29.53059日でこの周期を「朔望月」と呼びました。
「朔」は地球から見て太陽と月が同じ方向になった瞬間のことで、
暦の記号では「●」で、月はまったく人の目には見えません。
朔日を「ついたち」というには「月立ち」から来ているといわれています。
朔の日から月の旅が始まり、第二日を新月、第三日を三日月と呼びました。
また、「望」は、朔の反対で満月です。暦の記号では「○」です。
この満月のことを望(ぼう、あるいはもち)、望月ともいいました。
望は太陽と月が地球を真ん中にはさんで、正反対の位置に180度離れた瞬間のことで、
この望の時、太陽=地球=月の順番で一直線に並ぶと月は地球の影の中に入ってしまい月食になります。
月食は1、2年に1回起こるのが普通です。
朔望月を12倍すると354.4日になり、これに11日を加えると365.4日とほぼ太陽年と一致しました。
これが古代中国やエジプトの太陽暦や太陰太陽暦の始まりです。
日本の暦法
古代日本の暦法は三世紀の「魏志倭人伝」によると
「其俗正歳・四時を知らず。坦々春耕秋収を記して年紀と為すのみ」とあります。
本居宣長の「真歴考」にあるとおり
古代日本では星や月や太陽にあまり関心を持たず、年始の月日もなく、
もっぱら「自然暦」にしたがって生活していたようです。
古事記には天文に関するものがありません。
ただ日本書紀には欽明天皇15年(554年)に、
朝鮮半島の百済から易博士の「施徳王道良」、
暦博士の「固徳王保孫」のほか医博士、薬博士が渡来したという記述があります。
推古天皇10年(602年)には百済から「観勒」という僧が来日して、
天皇に暦の本、天文地理の本、遁甲方術の本(兵書)などを献納したとされています。
暦法は「陽胡史租玉陳=やこのふみのおやたまふる」が、
方術は「山背臣日並=やましろのおみひなみ」という方が
学生達に教授したと記録にあります。
日本の暦法の開祖はこの玉陳です。
遁甲は兵書の中の忍術です。
別名を「吉を取り凶を避ける術」といいます。
方術は不老不死、長寿の法ですが、
卜筮、星相など占術の一面もあります。いづれも天文学に深い関係があります。
風水の言葉や考えにはこの天文学の知識や考えがかなり多く見られます。
天文学は単なる気象観測ではなく、政治、軍事、文化、生活にわたって未来を予知し、対応策を正確に立てる役割を最初から持っていました。
この頃から日本でも暦法、天文の研究が進み、持統天皇4年(690年)に日本初の暦法・元嘉歴が公布されました。天武天皇3年(675年)には初めての占星台(天文台)が作られました。
益田の岩船がそれではないかといわれています。
文武天皇5年(701年)には大宝律令が制定され、
初めて「陰陽寮」が設置され、暦博士が造暦の仕事にあたるようになりました。
暦博士は毎年歴を編集し、これを能筆の官吏が筆写して
毎年十一月朔日(一日)に「頒暦の儀式」を行ってのち
皇族、各官庁、地方官庁、諸豪族などに配布されました。
平安時代になるとこの暦には
朝廷の儀式はもちろん毎日の生活や吉凶に関する事項がこまごまと書き込まれて
余白は日記帳になっていたので、
貴族や女官たちは毎朝、まず暦を見てよく覚え、
前日の日記を書いたといわれています。なかなか不自由な生活であったようです。
その後、陰陽寮を取り仕切った陰陽頭の職務は安倍清明の子孫に、
その下で造暦の仕事をする暦博士の職務は賀茂保憲の子孫に代々継承されることになりました。
これが後に長く大きな権勢を誇った安倍家=土御門家と賀茂家=幸徳井家の始まりです。
日本の太陰太陽暦は9種類ありました。
使用されたのは次の期間でした。
○元嘉歴=持統天皇6年(西暦692年)から5年間
○儀鳳暦=文武天皇元年(西暦697年)から67年間
○大衍暦=天平宝字8年(西暦764年)から94年間
○五紀歴=天安2年(西暦858年)から4年間
○宣明歴=貞観4年(西暦862年)から823年間
○貞享暦=貞享2年(西暦1689年)から70年
○宝歴歴=宝歴5年(西暦1755年)から43年
○寛政歴=寛政10年(西暦1798年)から46年
○天保歴=弘化元年(西暦1844年)から29年